ゲーデルの不完全性定理について色々と調べていたときのこと。
なにやら、ゲーデルの不完全性定理が哲学の世界で取り上げられたことがあったらしく。その度に「いやそれちげーだろ」との声がインターネットを探していると出てくる。
http://d.hatena.ne.jp/igaris/20090114/1231929730 http://d.hatena.ne.jp/martbm/20170401/1490977561
ちなみに、学校の友人に不完全性定理について話すと、「まああれは数学よくわからない初心者の人に数学の面白さを伝えるための定理だよね、本当の数学ではないって感じ」などど言っていた。
ぼくは、ゲーデルの不完全性定理やらグラフ理論やらを哲学の世界に持ち込むことは、たとえ、いや十中八九、間違っているが、しかしそれも、数学の一種の「二次創作」として、アリなんじゃないか、と思っている。
文学の世界と数学の絶対に越えられない壁みたいのはあって、それは「公理」によって引き起こされている。厳格に物事を考えているから、逆に文学的な解釈が難しく、結局それぞれの公理の意味を考えることができない。ゲーデルの不完全性定理も、「数学的に正しく」説明しようとすればきっと文学的にはつまらない話になるだろう。だから、お互いに正しく、かつ面白く伝えることは不可能なのだと思う。あれ?なんかこれって不完全性定理っぽい話・・・?
だから現代数学は、一側面として、競技スポーツに似ているのかもしれない。エレガントな証明や新しい考え方をして、そこから新たな世界が広がる、というようなことを延々とやっていく。実用的な応用はその副産物に過ぎない。そういう風に考える人も多いように思う。競技スポーツもその意味について考えるのは野暮というものだろう、皆楽しいからやっているのだ。
そんなわけで、文学や思想と数学には何かしらのズレがあるように思える。この対比構造は、技術にも言えることだと思う。例えば、一般の人々の可能のアナロジーと、エンジニアの可能のアナロジーは違う。一般人が「これは技術的に可能だろう」と思うようなことが、実際にはほぼ不可能に近い、なんてことはざらにある。
この前のPEZY事件の時、Twitterでスパコンをレーシングカーのようなものだ、と言っていた人がいたけど、これも技術/数学/競技スポーツと一般的な考えとのズレを表しているんだと思う。そういったものは文学/思想/実利/一般の世界とは切り離されて考えられているのだ。
でも、僕はそのズレこそが重要なのだと思う。最初に「二次創作は大事」と言ったように。たとえうまく伝わらなくても、無理やり輸入する。それで、誤って解釈される。その「持ち上げ」こそが文明の原動力なんじゃないかな、と思う。
それで、このズレを何とかして埋めようとしてるのが、AIとか機械学習だ。僕は、そういったものが導入されることで、文明が希釈されてしまうのではないかと憂いている。ちょうどエントロピー増大則のような感じで。まあ、世の中が便利になる、やれることが増えるにつれて、そのぶん我々の考えられることの量も増えて行くわけだから、2倍世界を拡張したら4倍考えることが増える、みたいな状況になって、結局ズレは無くならないのかもしれない、ただの憂慮じゃないかと思うこともある。
でもやっぱり憂慮じゃないな、と思う点は、インターネットによってわれわれの情報に対する価値観は明らかに変化してしまったことだ。「情報のるつぼ」とも言われるように、インターネットの登場によってそれまで星雲のように漂って見えなかったものが、全て表層に引きづり出された。そして、それによって、「情報の所在」という観点で存在の有無を決定することは、不可能になってしまったのだ。増え続けていく情報によって、我々の文明は希釈されてしまったのかもしれない。