コンピュータウィルスの一つにウィルス対策ソフトというものがある。「ウィルス対策ソフトがウィルスなわけがない」と思うだろうが、それは誤りである。自らウィルスのなんたるかを定義することで、自らはコンピュータの中でユーザによって削除されない特権を得て、システムを上書きすることによって、システムによっても削除されない特権を得る。確かに感染経路はユーザによる直接インストールの他はないが、ウィルスに似た仕組みを持っていることは明らかである。
すでにコンピュータウィルスでも生体的ウィルスでも、感染効率を高めるために他のウィルスを感染させないようにする(邪魔する、もしくは譲り合いの精神?)仕組みが存在する。ところがそのようにコンピュータや生体のシステムだけで感染効率を高めることに行き詰まりを感じたのだろう。自分自身がウィルスの定義をすることで、自分は退治されることを回避する一方で、他の存在を思うがままに排除することで多くのシステムに感染できるように進化していったということは考えられないか。まさにそれが「ウィルス対策ソフト」なのではないか。
ここまでコンピューターウィルスと生体的ウィルスをごっちゃにして考えた。しかし実際両者は同じようなもの。コンピューターウィルスと言うけれど、あれは実はコンピュータに寄生しているのではなく、人間に寄生している。その理由に、コンピュータは身体の一部だ、と言う考え方を適用することもできる。しかし、今までのべたことを考えると、ウィルスは自分が様々なものに感染できるために、感染の対象や経路を様々にしているからだと思う。
もちろん単純にコンピュータのシステムやネットワークだけを対象にしたウィルスもあるだろうが、前述のように人々の「ウィルスが怖い」という「感情」につけこんで感染するウィルスだってある。さらにいえば、生体のシステムだけを対象にしたウィルスもあるが、そこから生まれた人々の「ウィルスが怖い」という「感情」につけこんでコンピュータに感染するウィルスだってある。
コンピュータウィルスの場合、結局作るのは「人」なのだから、一番最初の感染者は実は製作者だといえる。つまりコンピュータウィルスの感染の原点はプログラムではなく、そのプログラムを作ろうと思った人の「アイデア」だと言うことができる。
以上から、コンピュータウィルスはプログラムと「アイデア・感情」との間で形態を行き来していると言える。
そして近い未来には、生物の世界でもウィルスと「ウィルスと違って生物とされている存在」との境界が崩れていくであろうし、生体ウィルスとコンピュータウィルス、それから「アイデア・感情」との境界も次第に薄れていき、お互いの間を自由に行き来できるようになるのだろう。