超てきとう批評 -- 地球外少年少女

地球外少年少女をnetflixで一気見した。

まず少し前提となる話をする。

電脳コイルのアニメ版が、攻殻機動隊のアニメ版(押井の映画版(1995)と神山のS.A.C.(2002))よりもいいな、と思ったのはなぜかというと…日常と技術(に対するSF的な見方)を融合しているからだ。

アニメーションという媒体で描く以上、浮世離れした「サイバーパンクの未来すごい!!!」みたいなことだけではなく、現実世界の日常と技術との関わりあいを描く必要があると思う。

これ(いくらファンタジー世界を描こうとしても、現実の汚さがどうしても混ざってしまうこと)は漫画やアニメといった媒体にかかったある種の「呪い」とも言えるかもしれない…その規則を破ってしまったのが攻殻機動隊のように見える。(ただ攻殻機動隊の原作は、「エログロ」の存在があるため、そうではないように思う。それに、攻殻機動隊にそういう要素が皆無というわけではなく、電脳コイルが日常との関わりを非常に重視しているということでもある)

また結局、完全なファンタジーの「ハッカー像」よりも、実際に現実の人々が思い抱く感情にリンクした形での「ハッカー像」のほうが、実存度が高いと言えるだろう。そう、例えば電脳コイルで、日本の「縦割り行政」を子どもたちが揶揄するような場面とか…それは地球外少年少女の序盤の方で日本のお役所系プロジェクトに共通する「ダサいデザイン」を若者たちが嘲笑するという場面とも類似している…そのような感情はまさしく、「サイバースペース独立宣言」における、国家や物質的権威を嘲笑し、わたしたちサイバースペースのことは放っておいてくれ、と要求する(あるいは放っておくしかないだろうと考える)思想そのものである…

地球外少年少女も、非常に積極的に現代社会の日常とSFとを融合させようと頑張っているように見える。その意味で非常に良いアニメだと思うのだが、ただまあそのなんというか…ある種の「行き詰まり」を感じるようでもある。

この作品の一番最後で、「飛び級」とか「アメリカ留学」とか「エストニアでベンチャー」などの単語が飛びかう場面がある。このことから示唆される通り、現代(日本)社会では例えば「ハーバード大学」などの言葉は単なる称号や記号として存在していて、なにか学問をする機関としての実態をともなったものではなくなってきている。ある意味でこれは、サイバーパンク的だと言えるし、上述の「サイバースペース独立宣言」とも通ずるかもしれない。既存の機関の権威が凋落し、今私たちが普通に知覚している世界ではなく、プログラムやコマンドで構成された抽象的な世界に飛び立っていったハッカーたちで溢れかえっている世界…(そもそも、地球外少年少女のメインテーマがそういうことだったが…)現代の日常の有り方そのものが、抽象化・プログラム化・記号化してきている。この流れはコロナカでますます加速した。

日常がSFになっている状況下では、もはや「日常とSFをつなげること」(具体例を挙げるなら、地球外少年少女ではSNSのインフルエンサーが描写されている)に意味がなくなってきているのかもしれない。電脳コイルのときはまだ日常とハッカー像が乖離していたから、その二つをつなげることには面白さもあったし、政治的意義もあったが、(このアニメを見るような)ほとんどの人がハッカーと化している現代にあっては、そのようなことに意味はないのかもしれない。そういう行き詰まりが見える。

一番重大な問題点は、目指すべき未来が見えなくなってきているように感じるということだ。今のインターネットの状況を見ると、結局、みんながインターネットにつながって自由に情報をやり取りする未来みたいなのが、本当にいい方向に向かっているのか不安である。(もちろん、本来のハッカーやサイバースペースの理念と、今のインターネットの現状が違う、という考え方はある。今後、そこの微妙な違いを作品に落とし込み、より良いSFのナラティブを造り上げる必要性はあるかもしれない。)

そう考えると、結局、今私たちが漠然と思い描いている未来像とは全く違う、突拍子もない方向性(例えばDUNEみたいに封建制とか)を、本気で未来のあるべき姿として考えていく必要があるのかもしれない。(こういうことを言うとスペキュラティブ・フィクションっぽいけど…)ただ、同じアニメでも例えば『デカダンス』はけっこうこの問題に対して答えを提供してくれている気もする。なんか視覚的な面白さがあった。なんとなく印象レベルの話に過ぎないが。