テクノロジー、攻殻機動隊、老子、何晏

さて、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995、押井守監督)の話。最近リマスターされて上映されるらしい。

https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2108/20/news124.html

今みてもかなり未来感があって超絶はいくおりてぃなアニメだけど

ちょっと原作破壊的な部分があるよね…原作のエログロナンセンスてき部分を綺麗に削ぎ落としてそふぃすてぃけーてっどな芸術作品みたいにしてしまったのが不満点ではある…それに応じて作品の主題もだいぶ変化しちゃっている。そこが微妙に鼻につく感じではあるのだが…

神山健治版のほうはそれはそれで社会とか組織にたいするませた(?)見方みたいのが鼻につく感じ。東のエデンと同根の気持ち悪さがある。

テクノロジーはやはり猥褻なもの、あるいはすごく庶民的で素朴なものと共にあってこそだよなあ。隔絶を表現してしまっては、分断が深まるばかり。

テクノロジーや科学をもっと勉強しましょう、勉強は楽しいよ!な〜んて言って教化しようとするのは、選民思想というか、知識偏愛主義というか、そういうところがあって気持ち悪い。

いっぽうで知識なんて要らな〜い、という考え方もある。ワクチン陰謀論とか。なんか怖いから打つのやめよう。しばらく様子見。それはそれでなんだかなあ。しかもそういう考え方は結局のところ選民思想に行き着く。私たちは世界の陰謀に気づいている、目覚めた(awoken)人々。周りのまだ気づけてない、かわいそうなひとたちを覚醒させなきゃ。

あるいは衆愚政治という考え方もある。知識なんて必要ない。そんなものあっても無駄。だから一部の支配者以外、勉強はしないようにしよう。道教の経典である『老子』の最後らへんは衆愚政治を説いていると言われることがよくある。民衆に知識を与えなければ、安定した国家運営ができるよ。でも、本当に単にそういうことを言っているのだろうか?『老子』の前半は、すごく抽象的な形而上学が繰り広げられる。なのに後半でそこまで急に形而上学的要素の一切存在しない、国家運営の話になるだろうか?別解釈があり得るのではないか?

何晏は儒教の思想家だが、その考え方は非常に道教に近いものであった。彼はこのような思想をもっていた。人々は万物の根源的理法である「道」を理解はしていなくても、日々の生活にこれを利用している。北極星の周りを星々が周回するように、人々は自然に「道」に関わり続け、付き従っている。だから別に多くを学ばなくとも良いのだ。

テクノロジーはかくあるべきなのかもしれない。学んでも、あるいは学ばなくても、自然に個々人が触れ合い、関わり合いを持ち続ける。実際、今の世の中は、完全にテクノロジーに支配されている。テクノロジーから離れるのはとても難しい。だからこそ、勉強してもしなくても、実はあんまり変わらない。逆に言えば、それで格差が生まれるということは、いまだにテクノロジーが知識をもった一部の人に悪用(exploit)される未熟な段階であり、今ひとつ自然な存在になりえていないということだ。

蛇足1:ちなみにexploitって一般英語では良い意味に使われることが多いけど、技術界隈ではほぼ確実に悪い意味で使われる、非常に興味深い英単語だよね…

蛇足2:この文章の構成って曹丕『典論』の論文(かの超有名な「文章は経国の大業にして…」ってやつ。高校のとき漢文の教科書をぱらぱらとめくってたら目に入って、一瞬でめちゃくちゃ名文だと度肝を抜かれた)に似てるね!前半は純然たる文学批評、後半は宗教規範と絡めた話をするところが。まああの名文と比べるのもおこがましいけど…

参考文献(何晏に関する部分)

渡邉義浩 (2021)『『論語』孔子の言葉はいかにつくられたか』, 講談社, p.207-221