チートってそんなに悪いことでは無いんじゃないか。
普通にゲームをプレイしていると、それはゲームをいかに倒すかということだが、
チートでゲームをプレイするのは、自分との戦いなのである。
すなわち、どこまでチートして、どこまで「真面目」にプレイするか。そこに微妙なせめぎ合いが見られるのである。これは普通にゲームプレイするよりも、面白いことではないか。(特に最近、ゲームシステムの一環としてチートを許す、あるいは制約が存在せず、プレイヤーみずから制約を考案することを推奨するゲームが増えていることは、特筆するべきかもしれない)
一方で、矛盾するようだが、チートと自動化は切っても切れない関係である。いかに自動化するか、あるいはしないのか、これは人類の永遠の課題である。より複雑で深遠な問題を解く喜びが、そこにはあるのである。
また、moddingのAPIリファレンスを読み込みプログラムを組み立てたり、あるいは深遠なアセンブリとデータ構造のスパゲッティ世界にダイブしたりといった、ゲームの外にあるゲームを楽しむこともできるのである。
moddingの台頭、あるいはオンラインゲームの台頭によって、「正当な」ゲーム体験とチートとの間の境界が薄まっていることもまた重要である。当然ながらmoddingは、部分的にはチートであり、部分的にはチートではない。オンラインゲームにおいては、運営によるバランス調整がチートと呼ばれることも多い。
「正当」の中からも「チート」が生まれ、「チート」の中からも「正当」が生まれる(なろう系小説の業界では、チートこそがノルムであり、反チートこそが異端である)。「チート」と「正当」との間には、弁証法的関係(?)がある。
もしも自由なmoddingを許すMMORPG的なるものが出現したら、それはゲーム業界における大きな進歩である。そしてこれは、仮想通貨やスマートコントラクト、NFT、メタバースにおける進歩と解放とも大きく関わってくる話である。