フリーゲームから考える魔術的リアリズム、オリエンタリズム、仏教、道教、儒教、ラノベ、7・8事件など

仏教 解脱 執着からの解放 これって質的に否定神学的な(?)道教とか儒教とかとはちがうとこある

なんか根本的な目的意識が違うというか…苦しみから解放されることと、善悪をはっきりと正しく区別することの違いというか。

でもこう言うふうにラノベ的に?この二つを合わせて考えることもできるかもしれない。

無垢なる意思(cf. Sky And Earth)による執着があるのではないか?あらゆる十二支縁起を混源から断ち、あらゆる苦しみから解放されたとする。でもそこから解放されてもなお残る執着心、指向性のようなものがあるのではないか?それが無為自然ということなのかもしれない。

そういえばラノベと文学を対立軸として考えるとすると、宗教と魔術的リアリズムが対立関係にあることになるのでは?(ラシュディ『悪魔の詩』とか)魔術的リアリズム的な作家が注目されることのオリエンタリズム性みたいな話がされるが、そもそも魔術的リアリズム的なものは太古の昔からあらゆる文学作品で見られるものであり、ずっと人類が共有してきたものなのではないか?わざわざそこを穿って考えて、(新)植民地主義による権力勾配を背景にして「私たちの知らないものを教えてくれる異国の地」のように考えることは、全くもってナンセンス、馬鹿馬鹿しいのである。本質的に、ラノベは宗教で、文学は魔術的リアリズムなのだ。その数千年に及ぶ対立関係を乗り越えるような作品があったとしたら、私はそれに惹かれることになるだろう。ある意味、『幻想再帰のアリュージョニスト』はそうだった。そして、2022年にリリースされたフリーゲーム『子どもたちの国 -Magic Children-』と『Sky And Earth』もそうと言えるかもしれない。

子どもたちの国 -Magic Children-』と『Sky And Earth』が同時にリリースされたのって本当に意味深長なことだよなあ…宗教に対する半ば行き場を失った?熱い視線が存在しているのがわかる。山上事件に対する社会全体の反応も、氷山の一角に過ぎず、社会全体の根底の流れの一部なのかもしれない。

などと、サブカルのなかでもさらに辺境の地にあるフリゲ界と、わずかな数の文学作品を最初の30ページだけ読んだ生半可な知識から考えてみた。