似たような話(ポストモダンの病理)

ナイーブな感動が危険だという話は確かに分かるが、だからといって人間としての感情を全て嘲笑うかのような態度になってはいけない。ポストモダンの末期症状であり、その先には死が待っている。


ある表現が人々を攻撃的にさせるだとか、ミソジニーを強化するなどと考えてはならない、という馬鹿げた意見がある。表現が人を扇動したり、先入観を植え付けることが無いならば、どうして私たちが表現について意味のある語りをすることができようか。そうした物事と結びつけないで考えた感想など、なべて無味乾燥で、なんの面白みも、何より表現の手法を一ミリも進化させることのないものである。本当に表現の界隈を破壊しているのは誰であるのか。表現の負の側面を理解してこそ、自由な表現ができるのではないか?


よく、作品そのものが何かしらのメッセージや意見を提示するのではなく、その中での描写は問題提起にとどまり、「解釈の幅」を持たせているような作品がある。一般に、このような「考えさせられる」文学手法は多様な言説を生むと考えられている。しかし実際のところ、この「読者の解釈に委ねる」ような手口は、特に4コマ漫画や非常に短い小説などの媒体において、社会のさまざまな問題を矮小化させるだけに終わってしまう危険がある。


自分たちのカルチャーの一員となろうとする人に対しては情報や作品を提供・展示するが、そうでない人たちに見せても不快な気持ちにさせるかもしれないから、そこは慎もうね、というのがオタクカルチャーの重要な原理原則であったはずなのに、なぜそこが蔑ろにされようとしているのか……悲しすぎる。


言葉をアップデートしていく、emancipationみを感じる。

実際、「更生したのかどうか」みたいな質問は、答えを求めておらず(換言すれば、疑問文ではなく反語文ということかもしれない)、はいと答えてもいいえと答えても結局なにか嫌なことを言われたり、排除されたりといった不利益を被るようなものである。対等な立場であるように装っておいて、実はそうではない。

“これまでは「反省していないと思われるのでは」などの思いが頭をよぎり、笑顔になることにも抵抗があった。しかし、今は「更生」とは、文字どおり「更に生きる」ことだと考え、とにかく前を向きながら生きることを重視している。”

覚せい剤で逮捕、「どん底」味わった元政治家

https://www.bengo4.com/c_1009/n_13883/


私は基本的にこの手の「生き方系」note/twitter/etc…はあまり好きではないが(なぜなら多くが新自由主義の毒液に手遅れなほどに浸かってしまっているから; 誰もが他人を蹴落そうと必死で、いかにポジティブなことを言おうとも、いかにその枠組みから抜け出そうとしても、結局抜け出すことはできず、どうしようもない虚しさだけが残る)この人のは良い。

note.com/punyo753


わたしは世の中の虚しさを理解しているんだ!と表現市場に自身をアピールして、人気取り。虚しさを理解するのはいいが、それをアピールすることで、別の意味を付与してしまうのではないか?まあ、そういう全体の枠組みを飛び越えるような表現ができればいいんだが…

あるいはなにか、現実を認識しようだとか、「生きる」ということを切実に描いた作品、だとか。でも現実を認識していない人間なんておらんし、あらゆる作品は「生きる」ことを真剣に描いている。つまるところこれらの言説はただのトートロジーだ。すなわち、自分が何か他に言いたいことがあるのにも関わらず、無意味の言葉によってそれを覆い隠しているのだ。洗脳の一種だろう。


表現一般について、まあ今に限った話ではないかもしれないが、とくに資本主義、新自由主義が蔓延するなかで、みんな伸び伸びとした表現ができなくなっているのではないか、という不安感がある…


日本のある種のちしきじんの冷笑主義(nihilistic realismってやつかもしれない)みたいなもののうらに、(誤解された?)仏教があるんじゃないかとおもう。…などと、S氏がなんかの雑誌になにやら仏教に関する論考を載せていたのを見て思った。

ユーモアやダブルミーニング、あるいは冷笑といったものは、なにか広い視野をえることができたと私たちに錯覚させる一方で、実際には画一的な解釈を押し付ける場合がある…そういった形態の表現の、押し付けではないあり方を模索できたらいいのだが…


一部のオタク(と言って適切かは分からないが)の人々が、自分たちのことを理解しない人のことを攻撃する方向に走ってしまっているのはとても悲しい。表現なんてみんな好き勝手にやって、理解する人もいるししない人もいる、それでいいじゃないか。なのに、理解しない人がいることを弾圧だとか、古い考えだとか言ってレッテル貼りをして、攻撃するのはなんだかなあ。そうやって徒党組んで抗争しても、まったく建設的じゃないよね。よく、インターネットは何かを表現して創作活動を行う者と、それをただ単に消費するだけの者に分かれると言われる。この両者のおかげで、各々の分野は豊かになっていく。だが、外部の人々を攻撃する者は、その分野を破壊し、後退させていると言わざるを得ない。


こんな短絡的なツイートに2万件以上もいいねがついている事実に反吐が出るが、このツイートの言わんとすることはわかる。各分野の枝分かれや系譜の問題であろう。しかしながら、日本のオタク文化に多様性がないと言われる一番の原因は、様々な分野をまたがった共通言語にある。そこにステレオタイプやルッキズムの問題が存在している以上、枝葉末節がどのように分岐していようとも(「多様」であろうとも)、決して無罪にはならない。そもそもの議論の軸が違う。

“多様性多様性と連呼しながら、多様性の極みである日本のアニメやオタ文化を、「ガラパゴス化だから矯正してやるんだ」っていう人が多くて意味がわからん。”

https://mobile.twitter.com/kanenooto7248/status/1474915459896311811

実際 確かにわかる 様々な分野を渡り歩いていると、確かに自分は多様な文化のあり方の中に身を置いているんだ、というふうに実感することがある。しかし共通言語というものがある以上、それは錯覚かもしれない。本当は単一の文化に囚われているだけかもしれない。


さすが日本の誇る悪の企業トヨタ。歩行者優先が法律でも決まっている絶対原則なのに、コンプライアンスのかけらもないツイートだな。物理的に車の方が歩行者よりも優位に立っているのだから、物事を考える上では歩行者を優先するようにしようという「弱者保護」が法の理念である。決して「強者保護」ではない。ところで、トヨタのホームページには「内外の法およびその精神を遵守し、オープンでフェアな企業活動を通じて、国際社会から信頼される企業市民を目指す」と書かれている。(https://global.toyota/jp/sustainability/esg/governance/ )

この絵は、その法の精神を踏み躙るような意志で充満している。

https://twitter.com/TOYOTA_PR/status/1446762359813410823


北京オリンピックボイコットというのは、オリンピックが汚職やあの悪夢の東京オリンピック等でぐだぐだな感じになってしまったために、平和の祭典というのが馬鹿馬鹿しくなり、だったら世の不穏の為に政治利用してやろうじゃないかと、こういう流れもあるのではないか?


違うんだよなあ。この作品はマスコミに対して行き過ぎだと批判する人々を嘲笑っているんだよなあ。一方的な解釈で捻じ曲げるな。

“神田正輝と松田聖子に「今のお気持ちは?」と聞いたどこかの記者よ、50年以上前のサザエさんで行き過ぎだと描かれた糞マスコミと何も変わらんのだぞ?”

https://mobile.twitter.com/nisetsuchida/status/1473221224868511744