https://news.yahoo.co.jp/byline/maedatsunehiko/20210704-00246259/
https://mainichi.jp/articles/20210629/k00/00m/040/414000c
論文の不正は表現の自由の範囲内で、犯罪ではないし、犯罪になるべきではない(ことが地裁・高裁・最高裁によって明らかになった)。不正に不寛容な学術界が存在を許されているように、不正な論文も存在を許されるべきである。
自らが不正とみなすものを(議論や批判を通してではなく、犯罪とレッテル貼りするなど)本当の意味で否定することは、自分自身の存在をも否定していることになると自覚しよう。
そもそも科学は既存の固定概念や規律を打ち破る営為ではなかったか。原初の理念を忘れてはいないか。科学の次のステップは、データ偏重主義やオリジナリティ偏重主義、「おもしろさ」偏重主義、インテグリティ偏重主義を疑うことではないか。そこにしか科学の未来はない。
データを取ってくるということじたい、とても恣意的な営為で、データを取ったあとに改竄することの恣意性を強調してしまっては、データを取る前の恣意性を覆い隠してしまうのではないか。私はどちらも同じくらい罪深いことだと思う。
学問のインテグリティというのもおかしい話だ。一人の人間の頭のなかは複雑怪奇で、内部でお互いに矛盾しあっている。また、その時々で心理状態は全く異なっているわけだから、端から見ると不誠実な態度も、人間として全く普通なことである。そういった諸矛盾やダブルスタンダードをすべて解消して統一しなければならないとする考え方は、まちがっているのではないか。「学問のインテグリティってそういう話じゃないよ」という人もいるかもしれないが、インテグリティという言葉の裏にはこの「統一された個人」の考え方が潜んでいると考える。
じゃあ、未来の科学はどのように研究され、どのように発表されていくのだろうか。そのことには色々妄想がふくらんでいるが、あとで気が向いたら書こうと思う。忘れないために「とっかかり」をここに描いておくと、海外ドラマ『BILLIONS』のように「個々人の物語」が反映されることになるだろう。