マルクス主義と仏教は、「世界の構造を理解すること」を目的にしている点で、似ているかもかもしれない。

実際にさまざまな作品を分析する中で、さまざまな概念について考えを巡らすなかで、その中にある二面性や矛盾を見つけることがある。なんか悟りっぽいかも〜。

ただ、二面性という考え方にも二面性がある。例えば宗教の二面性と言うとき、宗教は社会を良くすることもあれば悪くすることもあるという考え方があるが、この二面性の考え方を悪い方向で使うと、国が「社会を良くする」と認める宗教については保護し、それ以外の宗教(すなわち「迷信」)は徹底的に虐殺することに繋がってしまう。

ある意味、二面性とは仏教の空とも似ている概念かもしれない。空という考え方自体もまた空であるのだから。空を認識せねばならないという空への執着心は苦を生み出すことしかしない。それすらも超克しなければ解脱はない。

対象との対話(ダイアローグ)を通して、(物事の二面性とその止揚 or 一切是空)を認識する。マルクス主義者の行う批評行為は、仏教で言うところの修行ではなかろうか。

cf. https://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-07-16/20100715faq09_01_0.html

(追記:参照) 対象との対話→マルクス『疎外された労働』、仏教における止・観の概念