Web小説、動画サイトに乗っている魔術関係の動画、SCPやサウスパークにおけるミーム汚染・認識災害・現実改変およびそれに類似する事象を研究した結果、魔術(呪術?)の原則には以下のようなものがあることが判明した。Web小説ではhttps://ncode.syosetu.com/n5093ct/、https://ncode.syosetu.com/n9073ca/などを参考にした。
魔術の原則色々
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類似性/同一構造の利用(呪術)
例えば「だるまに目を描く」という動作は… まず「だるまが完全な状態になる」ことと現実世界でイベントが成就することを対応させる。 その上で、「不完全なものは完全なものになるはず」という直観を利用して、 現実世界を操作しようと試みる。
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因果律の逆転(類似性 の 応用?)
(上の続き)すなわち、A「本来イベントが成就した後にだるまに両目が描かれ完全な状態になる」わけだが、逆に B「『だるまに両目が描かれた完全な状態を想起すること』でイベントが成就させようとする」わけだから、 因果律の逆転していると言える。
でも、Aという前提があるからBのような考えが発生する。逆にBという法則があるから結果的にAが成立すると考えることもできる。つまりXが起こった後にYが起こるのも、Yが起こった後にXが起こるのも、実は同じことなのかもしれない。その意味では、因果律の「逆転」というのは先住民の「発見」というのと同じようにナンセンスなことなのかもしれない。これからは因果律の同一性とでも呼ぼうか。
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認識バイアス
多くの人が思っている状態に(たとえそれが誤認だったとしても)物事が近づくという現象のこと。 因果律の「逆転」(or 同一性)の一種と考えることができる。「Xが発生した -> 多くの人にXが認知された」が、 「多くの人にXが認知された -> Xが発生した」に変わっている。
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引用
周知された存在・法則をベースとした方がよりパワーが強まる。 イベントは個人個人によって異なるが、「だるま」という儀式行為は多くの人々がやっているため、単純にイベントの成就を願うよりも強固なものになる。これはブログラムの一部を多くの人が使っているライブラリで置き換えるようなことである。要するに引用。引用・類似性によって呪術パワーが強まる。
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“理解される"ことで解呪される
特定の様式の魔術は、その構造(i.e. 引用関係)が理解されると効力を発さなくなる、それどころか使役者に呪詛返しのようなものがかかるらしい。
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ハイリスク・ハイリターンの原則
類似性・引用の話と似たようなものだが、魔術とは他の情報との引用で成り立っているため、逆に誰が読んでも理解できない・想起するものがない呪文はあまりパワーを持たないと言える。上の「“理解される"ことで解呪される」の原則と合わせると、より理解される可能性が高い(引用関係がわかりやすい)魔術はよりパワーを持つと言える。
提起される問い
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世界で一番出版されている本が聖書であるらしい。さらに旧約聖書はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教で聖典とされているから、これらの媒体の引用が地球上ではもっとも強い呪術となるのかもしれないが、逆に考えて人工知能などで何十兆という「思考体」を用意してそれらに何かしらの情報を入力すれば、その情報が強い呪術を生み出すようになるのであろうか?もしそうであれば、いわゆるクオリアというものは「呪術パワーを生み出すこと」なのだろうか?
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魔術は「理解されると効力をなくす」が、「理解できないと意味がない」。この二つは矛盾するのではないだろうか。“誰が読んでも理解できない・想起するものがない呪文はあまりパワーを持たない"のだが、“理解されることで解呪される"わけだから理解が簡単な情報は(結果的には)パワーというか現実への影響が軽微になるのでは?何か二つタイプがあるのかもしれない。一つは引用関係が周知された存在をベースとし、かつその関係が認識されることでも増幅されるもの。もう一つは、引用関係が周知された存在をベースとしている一方で、認識されてしまうと無効になってしまうもの。事前に魔術に仕込んでいるプログラムの問題なのかも。
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誰がより良い(魔術的により強い効果を生み出す)引用関係かどうかを判別するのだろうか?相対主義的には情報に秘められた魔術パワーが一つに定まるということは無いような気がする。であれば、相対主義は魔術を無効化する術なのだろうか。もしかすると、相対主義の中でも、「魔術パワーが一つに定まるということは無いが、様々な解釈次第で世界が分岐していく」というような形で魔術が保持されるのかもしれない。