種として淘汰されることや、個体として死を迎えること、あるいは社会の中で成功するかどうかといったことを良い/悪いという枠組みで考えること自体、生物圏というものの本質を見誤ることであり、人間社会の本質を見誤ることでもある。
高校の教科書にも載っている「植生」の話がある。最初はゴツゴツした岩肌だったのが、そこにコケなどが生えていき、土が形成され、草が生えて、低めの木が生える。その後、段々と身長が高い木が優勢になっていき、低い木は淘汰されていく。段々と明るい森から鬱蒼とした森になっていく。ある意味では、ここに日光の取り合いという競争社会を見てとることができるかもしれない。しかしながら、そもそも樹木が生えることができるのはそれよりも前にコケなどが土壌を形成する下支えをしてくれたからであり、コケやシダの繁栄無くして、草が生えることも、森林が出来上がることもないのだ。陽樹の繁栄無くして、陰樹の繁栄はないのだ。生物の世界を単なる競争社会とみなすことが、いかに浅はかなことか。淘汰されてしまった、あるいは縮退した生物は、その後の生物の生存の根本的な理由として存在している。別の言い方をすれば。後からやってきた生物の一部として、それまでの生物が全て含まれていると考えることができる(逆に、前にいた生物たちの一部に、その後やってくる生物たちが全て含まれていると考えることもできるかもしれない)。つまり、みんなが淘汰されないために生存競争を頑張っているだとか、そういう見方で生物を見るのは、不適切である。百歩譲って、人間社会についてそういうことを考えるのであれば、まあ「自分たち」のことだしわからなくもないが、その比喩として植物を持ち出すのは、あまりにも不適切である。なぜなら、私たちはこれから(人新世?)のことはよく分からないが、今まで生物圏がどのように移り変わっていったか、それなりに俯瞰した目線での知識を持っているからだ。これは人間の歴史だってそうだ。確かに歴史を見ると、人間たちはいつでもどこでも競争や戦争をしているが、しかし歴史の流れを考える際、淘汰された存在は無意味とされることはなく、かえってその後の世界にもたらした影響や、つながりを強調される。
これは本当に、ただただ当たり前の話をしているだけだ。今までの全ての生物がおこなってきた行動とその結果は、全てその後繁栄していく生物の行動の前提になっている。そのため、個体や種で分けて損得を考えるということ自体、全くのナンセンスなのだ。
インターネットに詳しいあなたなら、すぐに分かる話だろう。いわゆる「ミーム」というやつだ。私たち生み出した情報がコピーされ拡散されときには変異していき、遺伝子のように振る舞う。それは私自身の一部が世界全体にあまねく広がっていくようである。であれば、私たちが行ったあらゆる行動は、その行動そのものが、私たち自身であるとはいえないか。そしてその行動によって影響を及ぼされたあらゆる存在の中に、私たち自身が潜り込んでいく。文字通り、息を吸って吐くだけでも、「私」は他者の中に入り込んでいき、その後も決してなくなることはない。そこに失敗も成功も、生存も淘汰もない。