国語教育について

おかしいのは、そもそもこの世に文章を読むのが下手くそなやつとか、「正しい」解釈ができないヤツなんているのかという話だ。そんなヤツはいない。文章を読んでわからないと思うのは、それは自分の価値観とその文章の価値観がかけ離れているからではないだろうか。しかしながら、わからないと思うということは、それだけ自分の考え方とこれは全く違う物だと理解しているのであって、「わからない」ということはすなわち「分かっている」ということなのである。

国語の試験問題は「出題者が想定した解釈」を学生たちに押し付ける物であるが、問題に間違えたからと言ってその文章を理解できなかったわけでも、出題者の意図が分からなかった訳でもないのではないか。ただ出題者と学生の価値観に乖離があり、そのことを無意識的にしろ意識的にしろ学生の方がわかっているからこそ間違えるのではないだろうか。問題があっているか間違っているか、あるいは正解を選ぶためにどうすればいいかなどを考えることよりも、**なぜその問題を間違えたかを分析することを通して、学生あるいは出題者の奥底にある差別意識や先入観を暴き出すことのほうが、遥かに有意義であろう。**というより、それが国語という分野において試験を課すことの唯一の有意義な点であろう。