このツイートでは、電車の遅延状況を表した図を指して、「エボラウイルスの形に見える」と、キュートな顔文字を添えて言っている。(また、このツイートを投稿した人は、プロフィール欄に「科学に興味のない人にどう伝えるかの専門家」と書いている。)
こういう科学者や技術者の発言…日常生活におけるさまざまなオブジェクトと、自身の専門分野や、そうでなくとも科学や工学における用語とを繋げ、一種のジョークのようなものとして楽しむ発言…を、不謹慎だと批判することはできよう。しかし、このような営為がもし、単なるジョークや一瞬の快楽を求めるような面白さから脱して、より深い文学的な情景を表現することができればいいなあ、とも思う。例えば、世間一般のことなどどうでもよく、単に真理を追求したい(というような言葉で片付けてしまっていいのかはわからないが…ここでいう真理とは、正しいことや事実という意味ではなく、むしろ科学における発見群と、それらに対する科学者たちの注目や関心のネットワーク(サイード!)が織りなす、現実世界とは隔絶した一種の別世界というべきものかもしれない。同様のことは科学に限らず、言語学習、小説、ファンドム、オタクカルチャーといった領域でも起こり得ることである)感情と、いやそうではなく社会との関わり合いや地球全体のことを考えていかなくてはならないと思う感情との対立が生みだす微妙ななにかとか…
https://mobile.twitter.com/kurorabukyouzyu/status/1506959519221309442
「データドリブン」「エビデンスベース」などの言葉、ほんとうに良くないよなあ…最初にデータがきちゃだめでしょ…
データは必ず正しいなんてことはなく、そのデータに対応する解釈によって、判断は変わってくる。しかしながらデータが先に来てしまうと、解釈を変えることによって恣意的に判断を変えることができてしまう。
まず最初にデータをいかに解釈するか、いかに収集するかを決めなければ、データを分析する段階に移ることができない。そして解釈や収集の方法を考えるのは、結局私たちの常識(専門家の間の常識も含む)や人生経験の話になってくる。「データドリブン」なんて元から不可能だろう。
本当にビッグなデータ、世界のありとあらゆる情報をデジタル化して分析するような段階になって初めて、データそのものから議論を開始する意味が出てくるのかもしれないが…それでもやはり、少なくとも現段階では、収集方法が問題になってくる。例えばAIのべりすとで小説を書いていると、どうしてもいわゆる「なろう小説」っぽくなってしまう。「なろう小説」でない小説を書かせるためには、いろいろと工夫をする必要がある。しかしながら、世の中の多くの文章が「なろう小説」であり、そうでない文章は異端であるということは、私たちの常識と照らし合わせても間違っている。
データをもとに解析しても、私たちの常識とかけ離れた結論にいたることもよくある。それを「データがこう言ってるんだから今までの常識は間違っている」などと考えることは早計であり、データの収集方法や分析方法に問題がある可能性だってある。いままでの話と矛盾するようでもあるが、結局、データから導き出された結論もまた、いままでに培われてきた知識によって疑われるべきものであり、データを分析した結果出てきた結論が常識を疑い、常識がデータの収集・分析の方法や結論を疑うという双方向の関係をもっている。この重要な関係を、「データドリブン」「エビデンスベース」などの言葉が覆い隠していることを憂慮する。
そういえば、サイードの『オリエンタリズム』の序文に、過度に具体的な議論も、過度に抽象的な議論も避けるべきだ、みたいなことが書かれてあったなあ…まあ当たり前の話ではあるが。