https://mobile.twitter.com/tsundereblog/status/1490228849057042433
このツイートは、「同業者から若干反感買うことを承知でいうが「新人弁護士カエデ」のシリーズは、一つ一つのツイートは新人あるあるで面白いけど、それが蓄積して、女性の新人弁護士に仮託してドジっ子的な人物像を蓄積することに、非常にライトかつマイルドな女性蔑視が現れる可能性があることに思いを致して頂きたい。」という渡辺氏の意見を、「「非常にライトかつマイルドな女性蔑視が現れる可能性」で表現行為が制約されるべきであるとする人」と断じている。
しかしながらこれは典型的にアホらしい批判である。根本的に表現のなんたるかがわかってない。
「表現行為は制約されるべきでない」という信念がこのツイートをした人にはあるようだが、そもそも制約されない表現なんて、存在できるわけないじゃないか。あらゆる表現は、「こういう表現はするべきでない」という信念があってこそ、可能である。ステレオタイプを強化するような言説は望ましくないから、その点に留意して作品を作るべきだという議論は、なんらおかしいものではない。それを言論弾圧などと言ってしまえば、作品を作ろうとして、その過程で社会におけるさまざまな事象を思い起こすことそのものが言論弾圧になってしまう。それこそ何も表現できなくなってしまうに違いない。
この人は一体、何が「自由な表現」だと思っているのだろうか?制約されない表現など、果たして可能なのか?そもそも、「若い女性をドジっ子として描かなければならない」という無言の圧力が情報産業に存在するのではないか?そう考えれば、ステレオタイプを描くべきではないという信念は、まさにこの圧力と言論弾圧に対抗しているのだと言えるだろう。
よくフェミニスト達が言論弾圧をしていると批判する人々がいる。そしてその批判は「人々は自由に表現ができるべきである」という信念に基づく。インターネット上の陰謀論者の中には、フェミニスト達のバックに強権的な中国共産党がいると主張するものもいる。
しかしながら、以上のように考えれば、彼らが「言論弾圧だ」と批判している対象そのものが、実は言論弾圧に対抗するためのものであり、両者ともに「自由に表現ができるべきだ」という信念は共有しているのではないか?本質的には、両者の間で言っていること(上位者から文化が統制され圧力をかけられ、自由な表現ができないでいる現状を変えよう!)に違いがないにも関わらず、なぜか戦っている。