ひろゆき的逆説を思いついた

よくアイデアをパクることは良くないと言われるが、製作者の側から考えた時に、全く同じアイデアでも、それを自分が具現化させたものと、他人が具現化させたものとでは、完全に違ったものになるだろう。そう考えると、自分が作った作品と、自分が「こいつパクったな」と疑いをもつ他人の作品とは別物なのだから、わざわざ自分のアイデアが勝手に使われた!と怒る必要はないのではないか。それは自分のアイデアであって、自分のアイデアではないのだ。あるいは、アイデアは具現化して初めて自分のものとなり、その過程でイデア界のようなところに存在する「原初の」アイデアはそこを離れ、全くの別物に変化しながら自分の中にふわふわと入っていき、自分の所有物となるのだ。同じことは他人が同じアイデアを使って作品を作ったときでも起こりうるが、その変化の過程は全く違った経路を辿るから、すなわち、自分のアイデアと他人のアイデアはそのオリジネートする所が同じでも、別物なのである。

**逆に考えれば、あなたが誰かに対して「アイデアをパクられた!」と怒る場合、それはつまり、あなたが表現しようと思ってもうまく表現できなかった部分をその人が完璧に表現できていたことに嫉妬して、そのように言うのではないだろうか。**とはいえ、前述のように、嫉妬するのはあなたがあなたをひとりの人間として過小評価しているからである。よく似た他人と違う部分を見つけ出し、自分とは何かを内省するいい機会ではないか。自分は自分、他人は他人。何も怒る必要はない。

まあそもそも、作品は作品として一個の独立した人格を持っていて、一旦表現してしまえば自分の手からは砂のようにこぼれ落ちて離れてしまい、その後は作品たちなりに自立して生活していくのだという考え方もあるし、人間に人格なんてないんだから、何かを所有しているなんていうのは幻想で浅ましい考えでしかなく、あらゆるものは人類共有の財産なんだという考え方もある。その場合は、アイデアどころか作品を丸パクリされても、別に怒る必要はないだろう。