さすがだね、、なかなかせがわゲーは遊べてなかったが、(だいぶ前に知らない星の歩き方をちょっとやったけども。)確かにこの作品はすごい。
ジャンルとしては、いまふうに言えば「鬱ゲー」(この言葉も実際の鬱の人に失礼すぎるというかあんまりいいものではないが、ある意味でこの分野の問題点も含めて如実に表している言葉ではある)みたいなのに、ハウジング要素があったりして、そこらの普通のフリーのファンタジーゲームよりも、ファンタジー世界を構築しようという意気込みが強く感じられるというか、仲間と一緒に旅をしてるような感覚を非常に効果的に作り出している、、だからこその「虚無」というか、この世界は所詮つらい現実から逃れるための空想に過ぎない、全ては無駄だ、ということが本当に強く感じられるというか、、ここまで美しく世界を作っておいてそれを粉々にできるのはすごいよなあ、、やっぱりそういうテーマってファンタジーもの・異世界転生ものをメタ的に考えるという意味で根源的なものだと思う。エブエブとか。
後半に主人公は過度にわざとらしくメアリースーっぽく扱われるわけだけど、肯定を肯定として受け入れることができないというか、世界からズレた感じというか、、
いやーしかしホテルでのコンブさん?ワカメさん?メカブさん?の話はすごかったなあ。この部分見ているとなんというか、普通の物語的な部分に落とし込もうという部分もある一方で、かなり攻めたシュールな方向性にも行こうとしてる感がある。思考そのものが突発的に物語に現れてくるというか。ある種の日記的な表現とも言えるし、そこの部分だけ、ラッセルの物語なのか、作者の私小説なのか、あるいは何か別の物語が入り込んでるのか、分からなくなってくる。やっぱそこがせがわのすごいところだよなあ。典型性と逸脱性を両方併せ持ってる。
あとはうまいなと思ったのが、日本の描き方かなあ。日本のゲームや漫画などのカルチャーはちょっと変で、日本という概念の定着化と、ある種の西洋趣味のようなものがなぜか同じ作品に同居していたりする。そんなこんなで、なぜか西洋風の世界観の中に突如として日本的な概念が現れたりもすることが時々ある。そもそも日本社会がとても西洋化しているのもあるが、意図的かどうかはともかく、だんだんと舞台が日本なのか外国なのかわからなくなってくるという現象はある。
end rollがうまいのは、この作品の中での「日本」イメージが、主人公が前に読んだ本から構築されているという設定になっている点だ。異国情緒が所与のものではなく、一人の精神世界で組み立てられたものとして描かれるというだけで非常に興味深い表現の仕方だ。それだけでなく、主人公ラッセルの走馬灯のような妄想のなかの異国情緒が、実は日本語で書かれたゲーム作品のある種の様式でもあるというメタ性、二重の物語性。
さて、最も重要な「犯罪」というテーマに近づいてみる。
end rollは、いろいろ絶妙なバランス感覚でもって「misery porn」みたいになることを回避しようとしている作品だとは思う。最近この手のゲームが増えてきて、ジャンル全体としては、利用主義的な側面も強くなってきたと思う。まあ個人的には、EVERYTHING IS GOING TO BE OKみたいにいっそジャンルの殻を破ってしまうのもいいと思うけどね。そうすると売れないんだろうけど。あるいはmoddingを全面に打ち出して二次創作的な形でそういう商用主義的な部分を緩和するか。まあでもそれはナラティブ系ゲームだと難しいよなあ。
そのバランスの話でいうと特に重要なのは、歴史を語るということ。人生の経験を断片的に、そうまさにフラットに語っていく姿勢というか。さまざまな隠しマップで、ウサギの死、性被害、薬物、実はいた唯一の親友、などなど、いろんなものを語っていくわけだが、細かい経験が人のパーソナリティを作っていくことを示唆はするものの、それらの間の経験の関係や、それらの経験がどうパーソナリティに影響を与えたのかをあまり積極的に描かない(ウサギについてはまあけっこうはっきり指摘していたけども)、物語を積極的には作らない、ただそれらの重なり合いによって生まれる「虚無」は描くという姿勢がいい。必然ではなく偶然で語っていくというか。犯罪、パーソナリティ、アイデンティティ。こういった問題は、xxだからyyになったみたいな、論理とか筋道で説明してはいけない領域があると思う。もちろんそれは個々の経験が全く成長に影響を及さなかったということではないんだけども、やっぱり断片的に、等価的に、フラットに考えるべき部分もある。物語を作るとき、どうしても理論化や病理化がついて回る。そうした現象に対するメタ的な批評ができていたり、回路を作らない断片的な語り方ができているゲームは少ない。ほかにそういうことができているゲームを挙げるとすれば、unpackingやif found…になるだろうか。両者とも、日記や日常の物体といった「物」を起点にして、断片的な語りを行っている。
確かに、今で言うところのインセル的な話とか、母の温もりみたいなこととか、そういうフロイト的(?)というか、典型的な理由づけも試みられる。ただ最終的には真相は藪の中みたいな感じになってるのがいいと思う。
精神医学であったり、犯罪学であったり、あるいは人間の発達というモデルであったり、、、人はわからないものに対する恐怖を持っているのだと思う。その恐怖をなんとかしようとして、学問を拡大解釈・悪用して、あるいはときにはその学問エリートたちと結託して、ステレオタイプ的であったり、教条主義的な見方を作ってしまう。それは長期的な社会の発展には繋がらないと思うし、いち創作者としては、そうした見方が作品の典型的なナラティブとして広まっていき、作品の流れやムードを作るための道具として利用されるのを見るのは悲しい。ゲームには、ゲームにおける「断片的な語り」という様式は、そのような固定化された回路をほぐすことができるのではないかと、少し希望を持っている。
総合して、end rollは、最近だと原神に代表されるような「多文化系ファンタジー」とか、「鬱ゲー」「異世界転生」etcといったジャンルそのものに対する批評や、より洗練された表現手法の提起がなされている作品と思う。