羽交い締め、パワハラモラハラ、ホモソーシャル

私が所属していた小学校には羽交い締めなどの虐待を平気でするクソ教師が複数いた。公立中学ではパワハラモラハラは日常茶飯事だった。高校の”男子“*校だって有害なホモソーシャルは少なからずあった。性教育と人権教育は一体である。教師にも生徒にもそれが不十分だと思う。

* そもそも男子校に通う人はみんな男子なのだろうか、、、私は私のことを男子としてみなしてなかったように思う。ともあれ、個人個人の問題とは別に、男子校という存在が家父長制的・男子優位的な社会構造を作り上げている機関の一つになっていることは真剣に考えなければならないと思う。そこからまた個人の問題に戻るとするならば、男子校を共学にするべきではないか、という動きに対して反論する際によくいわれる言説として「共学だと自由に発言できなくなる」みたいなものがあるが、それってとっっっっっても今現在そして過去の在学生に失礼な話ではないだろうか。同性だからといって、いやそもそも同性かどうかもわからないのに、そんなにデリカシーのないコミュニケーションをしていいのだろうか。それが教育の場として正しいあり方だろうか?性別に関係なく、コミュニケーションとはお互いのことを尊重するのが当たり前ではないだろうか。もちろん人によっては馴れ馴れしい**/下ネタ的/同性愛者やアセクシャル・トランスジェンダーを排除するようなコミュニケーションをしても気にならない人もいるだろう。でもそれはお互いのことを理解し合ったうえで初めてできることであって、そういう事前の歩み寄り***のようなことを阻害するような、まさにホモソーシャル的な、人の機能を一つのモデルに落とし込んでしまうような、構造はあってはならないと思う。個々人の学びにとっても良くないし、社会全体にとっても良くない。本当は今の世代はそんなこと12歳くらいのころから感覚としてはわかってるんだろうとは思うけどね。でもシステムがそこに追いついていないし、大人たちはその感覚を全くわかっていないか、薄らと気づいてはいてもシステムを変えようとはしない。

** しかし馴れ馴れしいとはいったが、そもそもエリート男子校は受験という厳しい環境の中にある。そう考えると一方では下ネタや「絆」といった懐柔(それをまったく心地よく思わない人もたくさんいるが)があり、そして一方ではランク付けといった過酷な競争・実力主義があるということを考えると、皆このようなアメとムチに引き裂かれているのがよくわかる。ホモソーシャルの拷問的性質が垣間見える瞬間だ。

*** この、事前の歩み寄りというのは本当にむずかしい。外見からしても言動からしても行動からしても、どこから見ても強いオスの象徴のような人がいたとして(典型的な男子校の場では全員がそれをロールモデルとして求められる。そのようなモデルをもとにして作られたジョークが教室と廊下とを飛び交う。実際にはそのようなモデルに合致していない者は、ごまんといるのに)、でもその人は心の奥底ではそのような姿に苦しんでるかもしれない。クラスメイトがその学生をそのような存在だとみなすたびに、心に深い傷をおわせてしまっているかもしれない。だからやっぱり、そういう有害なコミュニケーションをクラスの空気として、場として作ってしまうのはもうやめよう。相当な勇気と独立性と、歯向かうことによって起こる排除と傷とを引き受ける覚悟のあるひとでなければ、拒めないじゃないか。