茶化しについて

よくショッギョ・ムッジョとか言って真面目な概念を茶化している人たちがいるが、これには問題が出てくる場合もある。確かに、ユーモアは物事を考える上で大切にしなければいけないものではあるが、その際、あー、あのよくある「諸行無常」ね(笑)みたいなかんじで概念をパターン化・類型化してしまうと良くない。

なぜパターン化が良くないかというと、実際に感じることができなくなってしまうからだ。パターンによって構成された、都市やインターネットの雑踏に埋もれてしまうのだ。「諸行無常」はとても素晴らしい考え方であると、大衆文化の中で受容(需要?)されているからこそ、さまざまな機会で「諸行無常」の言葉(あるいはそれをもじった言葉)を目にすることになる。しかしながら、パターン化を通して茶化す、あるいは茶化すことを通してパターン化すると、その素晴らしさがなくなってしまう。換言(諫言?)すれば、大衆文化には、このような「真面目な言葉」について、自己矛盾が生じているのである。近づこうとすれば近づこうとするほど、離れていく…

「諸行無常」に限らず、哲学的・宗教的言葉を茶化す風潮がある。それは批評に対する反射的な防御作用としてある意味必然的に生まれるものかもしれない。しかしそこには、元の宗教や哲学に対する攻撃となる危険性が大いにあり(仏教に関していえば残念ながらほとんどの日本語話者は日々その罪を犯しているが)、また上述のようにパターン化をしてしまうと、結局文化を腐敗させることにつながる。