いろいろ その7

本質的なものや、完全なもの、何が正義かなんて分からないんだから、ありのままの世界を受け入れようみたいな思想、
まあ良いんだけど、でも、
自分は中立な立場だと思ってる(?)のに、実際は政権に都合のいいことばかり言う冷笑系の人々と同様の誤謬を生じる危険があるんだよね…
自分や他者の基本的人権を蔑ろにして、滅私奉公するためにはその論理を適用するにもかかわらず、肝心の国家権力の正当性如何については、そこに何の疑問を持たないどころかそれを押し付けようとする…


漫画のコマをミームにする人、嫌い。殆どの漫画ミームは正直言って、作者・作品への冒涜と言わざるを得ない酷いもの。そもそもミームって、写真とか映画のコマとかを素材として使うことはあれど、基本的に素人がお絵描きしたり文字や画像を組み立てたりして作るもので、つまり元となる作品の持つ作者性とか権威を一旦消してから組み立て直すのが良いところなのに、

日本のミームは漫画のコマをそのまま使ったりセリフを少し変えるだけとか、なんというか自分で一個の画像を作ろうとすらしない(本来の文脈を改竄しているという自覚すら感じられない)のが卑劣だよね。「作品の権威」という概念そのものを馬鹿にするのではなく、元の作品の持つ権威を自分の言いたいことのために使っている感があって、なんというか陰湿さが半端ないし、クリエイティビティのかけらも感じられないし、最悪極まりない。要するにファシストよね。

もちろんそうでなくともミームというのはミソジニーや人種差別に繋がりかねないところはあるが、輪をかけてひどい。

てかこういう戦法をよく取る"表現の自由戦士"とかネトウヨとかの人たち、お前らこそ日本文化を破壊してるだろ???ってなる。こんなミームごときですらまともに「表現」できなくて既存のものの権威を捻じ曲げて借りることしかできないのは流石に可哀想だとは思う…まあそれはもはや「借りる」とすら言わないか。誠実な態度さえあれば表現なんて難しくない、誰でもできることなのに。

追記:まあ1コマだけでなくページ全体とか複数ページを使うのであれば前後の文脈が把握できるからまだマシだけどね。


このページみたいに、最新の機能を使うためには〇〇をインストールする必要がある、でもしなくてもいい、する場合はちゃんとOSごとのパッケージマネージャで定期的にアップデートしてくださいというのが道理であって、static linkとかは駄目だと思うんだけどね…

https://www.php.net/manual/en/openssl.requirements.php


http://gekikarareview.com/review_rpg/1103aprilfool.html

これの赤松氏のレビューを見て気づいたが、『四月馬鹿達の宴』に近い文学作品って、ナボコフの『ロリータ』も挙げられるかもしれない。この作品も非常にわかりやすいが、それでいて的確なやり方で、「「楽しさ」そのものを書」こうとしていると思う。


Reflexのいいところ

関数型なので、中央的なステート管理主体がないのが特徴。一方で、そういう中央的な管理主体を作ることもできる。ステートが変わることによってステートの変わり方が変わるみたいなケースだと少し大変なので、そういうケースが出てきた時に自分で作った中央的なステート管理主体を使うとかすると効率的かも

画面上に表示されるコンポーネント、ステート、ステートを管理するプログラムを混ぜこぜにして書ける(≒分離して書くこともできる)のが自由度というか職人工芸感があっていい


https://wezz-y.com/archives/94982/2

「そして本作の親密度は結局のところダンジョンで進行するのがメインで、いずれにせよキャラクターたちの様々な側面を見ていくことができるし物語は進行していく。ある一面では機械的なシステムだけど、親密な関係の内実の幅広さや正解のなさを示すような感じもする。」

フリゲで言うと愛と勇気とかしわもち、ステッパーズストップ、アンディメンテ、モスゲー、原産国、四月馬鹿、ブレイカーハーツ、(あともちろんelonaか)にも共通して言えることだと思うが、ゲームの中でもシステム的な部分がストーリーラインとはあまり関係のないものであることによって、逆にそれがより奥深いロールプレイを促進するという現象があるかもしれない。


暗号通貨と地球環境、そこまで相反するものではないと思う。ビットコインをはじめとする暗号プラットフォームは、

「証明するのは難しいが、検証するのは簡単である」という、さまざまな数学的問題に見られる一定の現象を利用している。(例えば、ハッシュ関数などの技術)

この仕組みをうまく使えば、全員が同じことを計算するという無駄を無くし、非常に複雑で膨大な計算をより少ないコンピューターが行うことになり、エネルギー消費の削減につながる。zkRollupなどの技術がその代表例だ。(興味深いのは、このこととプライバシーを担保する技術が共通しているということ。)確かに、そもそも検証することも無ければ、検証する分のエネルギーもいらないじゃないかということは言えなくもないが。それでもやはり、嘘をついたり、嘘とバレないように少しずつ改竄・操作したりする危険性が出てくるので、暗号技術等を使ってそのリスクを減らすということも重要だ。


イーロンマスクによってtwitterが差別主義者の巣窟になろうとしている。有名なアカウントについてはまともな人は(1)最初からブロックしている、あるいは(2)なんだかんだ言って差別的言説を研究する上での参考にはなるのでブロックしないという選択もある。問題は有象無象のインターネットトロール嫌がらせ戦士のほうだろう。ad blockのように、特定のアカウントのリプライやDM等が表示されないようになり、なおかつそのプリセットがユーザー間で共有されることにより、民主的モデレーションが達成されるようなブラウザ拡張の開発が必要かも知れない。ただ「捨て垢」の問題は依然として発生する…。


すてっぱーずすとっぷの作品群とか、しがつばかとかもすごくいいゲームではあるんだけど…やっぱりドストエフスキー的な洞察眼というか社会批評というかが足りないよね…その意味でwppはやっぱりフリゲ界でも稀有な存在だよなあ…いやすごく近いところにあるはずなんだけどね、ドストエフスキーみとしがつばか的なものって…本来は…ナボコフとかあるし…

てかパレット神ゲーだな…あんまりもういまでは知られていないみたいだが…2022年でも普通に通用するというか色褪せてないのがすごい…いやまあ「囚人へのペル・エム・フル」とかも含めあの時代のフリゲってやけに「映画」的だよなあ…最近のは見るゲとかも含めそれほど「映画」的な感じがする作品が少ない…(無論日本だけの話だけど…itch.ioとか行けば話は違ってくる)これは悪いことでもあるし良いことでもある


実証実験って責任逃れだよね…
どうせやるのなら期間限定とかにしないで完全な状態でリリースするのが道理であって、いつでも逃げれる準備をしておくのはなんというか卑怯としか言いようがない。
もちろん、存在するリスクを全く検証せずにサービスなどをを世に放つのは大きな問題であり、なんでもとりあえず実装してリリースしちゃえ、それでなんか問題が起こってもまあ仕方ないよね、みたいな思想には大反対だが、最初から「だってこれは実証実験なんで、そもそも問題があるかどうか測るためのものなんで、なんか問題があっても責任なんか取れません(笑)」みたいな逃げる姿勢でいるのはなんというか卑怯


暇空茜こと水原清晃とやらの発言を好意的に、あるいは様子見とかどっちもどっちとか「中立的」立場で拡散する人間はネットリンチに積極的に参加している人間の屑である。彼の提示している不正の証拠とやらもいくつか見たが、至極真っ当に事業をやっているようにしか見えない。「針小棒大」という言葉がよく当てはまる。残念ながら、この手の嫌がらせをするアカウントがネットから消えることはなく、防げないのだが、本来は「なんか難癖つけているひとがいるな〜」と無視され、すぐに消滅するべき類の情報である。それがどうしてか、数万のインターネットトロールのネットワークによる集中的な誹謗中傷の攻撃にまで成長してしまった。そういった文脈を理解せず、あるいは意図的に無視して、憲法学者等の社会的地位のそれなりにある人がこの話に乗っかってしまうのも大きな問題だ。

https://www.asahi.com/sp/articles/ASR1N5HLNR1LUCVL00S.html


新聞などで、よく「左右の分断が深刻だ」みたいな話が出てくるが、まったく違うと思う。今起きていることは、左右がどうこうの問題ではなく、人間の屑や彼らを助長したり見過ごしたりする人々と、そうでない人々の戦いなのだ。例えば「トランスジェンダーは存在しない、ただの趣味である」ということを言う人々と、その言説に対抗しようとする人々など。さらに深刻なのは、ネット上でアイデンティティを否定しようと活動する人々は、そのような言説を発信するだけでなく、いわゆる「インターネットトロール」「インターネット戦士」として、大規模なサイバーいじめのネットワークに加担しているという点だ。

正直、cynical theoryとかに乗っかってる「リベラル」が一番劣化してると思う。サイバートロールと化した「リベラリズム」。


チェンソーマンのアニメ化問題もフレドリックジェームソンのthird horizon 的な話で説明できるかもね。。。身もふたもない話になるが


https://public-comment.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000248506

原発稼働期間の無期限延長という未曾有の制度改悪に対する、国民の切実な不安や怒り、不信感が綴られている。全国民が読むべき。原発賛成派(?)からのコメントも幾つかあるが、ほとんどそういった切実さを感じ取れるものはなかった。日本経済を救うためには原発しかない、といったセンチメンタルな議論は、所詮方便でしかなく、(仮にそれがネトウヨ的言説に踊らされてそう思っているにしても)心の奥底からの苦しみから来ているものではないのだろうか…


「大量に貼られたステッカー「犯罪につながる」 秋葉原で一斉除去作戦」
https://www.asahi.com/sp/articles/ASR2X546ZR2SOXIE004.html

こういうのをキャンセルカルチャーと言うのであって、性差別や人種差別など人権侵害につながる表現を良しとしないことは当然であり、キャンセルカルチャーではない。


努力が強制される社会において行われるあらゆる努力は無意味である


「事実に基づいての記録か確認できない」ってことは、公式の記録であることは暗に認めてるよね…「事実に基づいての記録か確認できない」とかいう戯言を言うのを許して仕舞えば、どんな公文書の真偽も後出しで争えることになってしまうのではないか?

https://konishi-hiroyuki.jp/wp-content/uploads/2023/03/230303-予算委員会配布資料.pdf


「クラシック音楽」という言葉が嫌いだ。そもそも古典の素晴らしさとは、現代に生きる我々がさまざまなしがらみに絡め取られて非常に狭い視野でしか考えることができていない状況の中で、広い視野を与えてくれるようなところにある。そうした「しがらみ」の根幹には、機械化・工業化・標準化といった近代の呪いが存在している。「クラシック音楽」といわれる作品群は、そのようなことの産みの親みたいなものであり、それが古典を名乗るのはどうもいただけない。