脳内スタックトレース「あいなし」

辞書で「気にくわない」って古文でなんというんだっけ?と思って引いてみると、「あいなし」が出てきた。そこで「あいなし」の「不似合いだ。不調和だ。」という文の例文として、


枕草子 木の花は

「げに、葉の色よりはじめて、あいなく見ゆるを、唐土(もろこし)には限りなきものにて、文(ふみ)にも作る」

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というのが出てきた。ははあ、政治的には中国と独立・対等と形式的には主張していても文化的実質的には明らかに中国に従属しているという状況の中で、さすが清少納言はすごいなあ、中国の価値観を批判するんだあ、と思って原文を見てみた。


木の花は、濃きも薄きも紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。
四月のつごもり、五月のついたちのころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし。花の中より黄金の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたるあさぼらけの桜に劣らず。ほととぎすのよすがとさへ思へばにや、なほさらに言ふべうもあらず。
梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あいなく見ゆるを、唐土には限りなきものにて、文にも作る、なほさりともやうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしきにほひこそ、心もとなうつきためれ。 楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり。」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじとおぼえたり。
桐の木の花、紫に咲きたるはなほをかしきに、葉の広ごりざまぞ、うたてこちたけれど、異木どもとひとしう言ふべきにもあらず。唐土にことごとしき名つきたる鳥の、えりてこれにのみゐるらむ、いみじう心ことなり。まいて琴に作りて、さまざまなる音のいでくるなどは、をかしなど世の常に言ふべくやはある、いみじうこそめでたけれ。
木のさまにくげなれど、楝の花いとをかし。かれがれに、さまことに咲きて、必ず五月五日にあふもをかし。

ああ、一旦批判しておいて、「でもやっぱり少しは受け入れてやらないこともないわ」みたいなツンデレパターンか。なんと日本的な文章だなあと思っていたのだけれど、そのフォローの方法が「梨花一枝、春、雨を帯びたり。」とかめっちゃ頭良さそうな引用などをしていて、まるで「私は中国を批判しているけど、べつに中国のことを知らないわけじゃない。中国に対する教養はめっちゃあるから。」と言っているように思えて、そう考えると、ツンデレてきな日本てきな文章を用いてるけど、実際は自分が世界で一番凄いということを主張しているインディビジュアリストな文章になっていて、ある意味で日本文化を内在的に批判しているというきがしてきて、凄いなあ清少納言は、というきになった。いやあ、現代日本語を書いているときでさえそういった文章を書くのはこっぱずかしくなるというかなにかしらの困難が出てきようものだけど、古文ならなおさらその困難は増すような偏見があるので、やっぱすごいね。

といった脳内スタックトレースでした

僕の記憶が正しければ、中学校の教科書で枕草子は出てきたけど源氏物語は出てこなかった気がする。それは源氏物語の文体が難しかったりお話しになってたりだからというのがあるかもだけど、上述のようないんでぃびじゅありずむに感化されたGHQの采配、まあ采配とまでは行かなくてもその影響があるようなきがする。