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学問とは魂を救済する場所である。知ることによって自分の魂はより高いレベルに行けるのであって、そのための学問の自由だ。だからより多くの人々の魂が綺麗になるためには、学問は検閲や秘密や差別があってはならない。どんな情報にでも自由に触れることのできる場所でなければならない。本来、情報を収集し思考することは人間の固有の権利で、絶対にそうしたことが禁じられるようなことがあってはならない。しかし残念ながら、このような考え方は消えつつある。知財やら安全保障やらと、魂のレベルとは全く関係のない、どうでもいいことを言って、知ることの自由は阻害されている。そのように世界があまりにも澱んでいて、人々はいるだけで魂がどんどん落ちていく。これでは地獄に落とされても文句は言えない。そのような状況に対して、少しでも救済をするために学問は存在する。外国への知識の流出とか、学術スパイなどといった言葉がいかに馬鹿げているか。しかしながら最近はそのような意義が失われているようでならない。

同様に思うのは、自由に考えることができない状況で生み出された知識に、「意味」はあるのかどうかという話だ。今の時代は、学問や研究には多くの制約があるように思う。そのこと自体は別にいいのだが(いやよくないか)、上述の観点で考えると、、、みんな頑張って頑張って研究をしているのに、最終的にそれが「神の裁き」によって裁かれるとき、それが全くの無意味だったと言われてしまい、今までの苦労が全て無に帰すなんてことが起こるかもしれない。それが気がかりでしょうがない。

・・・なんてことをプラトンとかソクラテスとか荘子とか宗教とかの知識の残りカスをごちゃ混ぜにして考えた。